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麻原彰晃-その子どもたち

2015.12.01.Tue.22:59
12人もの子どもたちがいる死刑囚なんて、かつて存在しただろうか。

妻である松本知子との間に6人の子どもをつくり、石井久子との間では、92年2月に流産、93年12月に双子、さらに、95年3月に1人のあわせて3人。
この3人が松本智津夫の子どもであることは秘密にされてきた。

その理由を石井は自分の公判の被告人質問で説明した。

ジャーナリスト江川紹子の傍聴記録によると、

”オウムの教義では性欲の禁戒があって、出家したら性的欲望は断たなくてはいけないことになっていました。
それに、麻原さんの(子供)、ということなので、世間的には不倫ということになってしまいますし……。

オウムでは、麻原さんが触れる行為はすべてイニシエーション(儀式)と言われ、私も(麻原との性交渉は)そうだと言われていましたけど、それでは他の人を納得させるのは難しい。
知子さんのことなど、難しい問題がいろいろありました”

ということだった。


石井は、2000年11月、和歌山刑務所から出所した。

東京都内で記者会見し、今後について、「3人の子どもと一緒に静かに暮らしたい」と話したという。

この間、3人の子どもの養育費、養育にあたっている自分の妹に対する援助がオウム真理教から行われていたが、1999年いっぱいで打ち切られたという。


そのほかに、1人の女性信徒に子どもを産ませている。

松本と女性信者との性関係は当初からただならぬものがあった。

”後宮、ハーレムをつくる”

松本はこう言っていたそうだ。


*****

オカルト雑誌の取材で松本に会った記者が、微妙な男女関係を想像したかのような印象を記事にしている。

”1985年の夏、私は麻原彰晃氏に会った。東京のとあるマンションの一室。

玄関に迎え出てくれたのは、石井久子氏だった。細い肩紐のピンク色の水着(タンクトップ?)に素足、私は女性がいるなどと知らなかったせいもあって、彼女のいでたちにちょっと驚いた。

私もヨガをしていたが、当時はまだ、露出度の高い派手なトレーニングウェアなどなかったからである。

そのマンションには、石井氏のほかに、やはり彼女と同じいでたちのふたりの女性がいた。
ひとりは飯田エリ子氏だ。

このときのことでほかに印象に残ることといえば、たしかウエットスーツの上下を着ていた麻原氏がそれを突然脱いで、黒のビキニの水着姿になってヨガの行を示したことだ。

私はちょっとためらいを覚えた。
そして、何というか、マンションの広いとはいえない一室で肌を露出してヨガをする4人の男女になんともなまめかしいものを感じていた”

実際に、石井とは3人の子どもをつくる。また、飯田とも関係したという証言もある。


*****

1996年10月8日、東京地裁の早川公判で、宮前(岡崎)一明死刑囚が次のように証言した。

弁護人「あなたの検事調書に『その年(87年)の2月から4月にかけて、在家信徒の飯田エリ子と、肉体関係の戒律違反があったので、麻原から独房修行を命じられた』とあるのは?」

岡崎「それだけでもないです」

弁護人「調書にあるのはウソですか」

岡崎「麻原自身も、そのころ飯田エリ子と、肉体関係がありました。それで私は麻原から『お前とのことはエリ子から聞いたぞ』と言われたのです」


1997年3月27日の松本公判で、1987年から90年、東京都総務局指導課で宗教法人担当主査として、オウム真理教の宗教法人認証審査を行った都職員が証言した。

検察官「特に印象に残ったことはありますか」

職員「信者と家族のトラブルがたえないこと、セックスを用いた修行法や、教祖の血を信者に与える宗教儀式を行っていることについて、口頭で弁解を求めました」

検察官「後日、回答がありましたか」

職員「家族とトラブルがある場合は出家しないようにしてもらっている。セックスを用いるのは特殊な修行法で現在は行われておらず、血を用いる儀式は今後実施しませんという内容の文書が提出されました」


美人4姉妹で知られた『オウムシスターズ』の長女A子を妻として、1994年12月17日、上九一色村の教団施設から逃げ出したのは富田隆。

1997年11月27日、富田は自身の公判で、弁護人の被告人質問に答えた。

弁護人「(妻のA子との)交際のきっかけは?」

富田「94年2月、麻原彰晃の中国旅行に随行し、帰国して支部回りの警備役をしたとき、『アメリカが攻めてくるから準備しろ』と説法するのを聞きました。
同年4月、ロシアの射撃訓練ツアーが終わったあと、『どうせ戦闘で死ぬんだから、結婚したいヤツは、いまのうちに結婚しておけ』と、麻原に言われました。
それで思いきって、A子に声をかけたんです」

弁護人「どんなふうに彼女に声をかけましたか」

富田「第6サティアンのシールドルーム(個室)でいっしょになったとき、『尊師が好きな子に声をかけておけと言うんだけど、ぼくを受け入れるつもりがあるかい?』と問いかけると、『嬉しいけど、まさか引っかけじゃないでしょうね』と警戒されたんです」

弁護人「引っかけとは?」

富田「麻原から『あの男が好きか』と聞かれ、うっかり『はい』と答えると、『戒律を破るのか!』と叱責されることがあるから、心配したんだと思います」

弁護人「彼女に気持ちを打ち明けてから、どうなりましたか」

富田「やはり私としては、麻原に話して許可をもらわなければならないので、『いますぐとは言わないけど、A子と結婚させてください』と頼みました。
すると麻原から、『ハルマゲドンが終わったら結婚しろ。それまでは会ってはいけない』と厳命されたんです。
私は、彼女と結婚したかったから、脱走をもちかけたんです」

弁護人「そのときの反応は?」

富田「彼女は驚いた様子でしたが、信じられないようなことを打ち明けました。
麻原は特別なイニシエーションと称して、肉体関係をつづけていたんです。
その手引きをするのが、麻原の主治医の中川智正で、河口湖あたりのモーテルへ誘い出していました」

弁護人「あなたはどう答えましたか」

富田「そのとき彼女が、『尊師は人間を超えた存在で、神としてイニシエーションをほどこしたのだから、私はバージンだと思っている。こんな私と結婚してくれますか』と言うので、『教団から脱走しよう』と答えました」

弁護人「そういうことを話し合った時期は?」

富田「94年6月24、5日ころだったと思います」


どうやら松本は長女のA子とも関係があったようだ。

どれほどの女性信者と関係したのか。松本本人にしかわからないだろう。


 1995年5月の逮捕後、松本はこう語った。

”長男(当時4歳)と次男(当時2歳)を後継者として指名し、彼らに対して『リンポチェゲイカ』という尊称まで使うよう指示してきました。
教団運営体制については、そのふたりの息子の他、4人の娘を5人の正悟師に加えて、『長老部』として、運営にあたるように指示してきました”


事件から20年近く経つ。

松本の子どもたちはどのように生きていくのだろうか。

*****

 松本知子のとの子は以下の6人である。

【長女】

1978年生まれ。

ホーリーネームはドゥルガー。

教団での地位は正悟師。省庁制の際には流通監視省大臣であった。


【次女】

1981年生まれ。

ホーリーネームはカーリー。

2000年1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。

逮捕理由は教団施設への「住居侵入」であるが、それは教団の実態は酷いと感じた次女が、長男を教団から救出・保護するための手段であったという。

その後も長男達の住んでいる龍ケ崎市に在る住居に時々遊びに来ていたという。


【三女】

1983年生まれ。

教団での地位は麻原に次ぐ正大師でホーリーネームはアーチャリー。

家庭教師は石川公一。省庁制の際には法皇官房長官であった。

2000年1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。

2004年3月に合格した和光大学から入学拒否されたとして提訴し、東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じた。


【四女】

1989年生まれ。

龍ケ崎市に転居した時は、市の方針でその市の学校の転入拒否で2人の弟共々学校にも通えなかったという。

この要因は龍ケ崎市の転入拒否で市の戸籍を作って貰えなかったことが大きい。

協力者達のお陰で何とか学校に通えるようになったものの、学生時代はいじめに遭い、中学の校長からは「父親の所行を考慮すれば貴方は死んでも仕方のない人間だ」と評された。

2003年に教団との関係を保つ家族のあり方に疑問を抱き、後見人となった江川紹子の下に身を寄せる(後に江川は後見人を辞任している)。

麻原に死刑判決が下る2004年までは地下鉄サリン事件の詳細を知らず、自らインターネットや書籍を調べて自分に対する世間の冷たい視線の背景に初めて気付いたという。

その後はオウムや一家と絶縁し、自殺未遂を繰り返した。

ネットカフェ難民やホームレスのような生活をしながらも贖罪の道を模索している。

2010年、ペンネーム「松本聡香」名義で著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』を刊行。

「ひかりの輪」はこの著書に誤りが含まれているとしている。


【長男】

1992年生まれ。

日本シャンバラ化計画に於いて皇子の称号を与えられた。

1996年6月に教団の教祖となる。

四女と次男同様学校に籍を置くことが許されず、ほとんど学校に通わせて貰えなかったという。

姉や弟共々晴れて2001年4月から正式に学校に通うことになったが、始業式の日はテレビ局や新聞記者等が駆け寄ったため、協力者が追い払うことになった。

学校生活では、次男同様友達は出来たようである。


【次男】

1994年生まれ。

長男と同じく、日本シャンバラ化計画に於いて皇子の称号を与えられた。

1996年6月に教団の教祖となる。

小学1年生は1学期しか登校しておらず、その後は龍ケ崎市に引越し四女と長男同様学校に通えなかったが、協力者のお陰で学校に通うことが出来た。

しかし、約8か月も学校に通えていない時期が続いていたため、小学2年生から学校生活を正式にスタートした。

2004年秋、拘置所で父と対面し「会えてうれしいです」と声をかけたが、返事はなかったという。

2006年に春日部共栄中学校に合格したものの、「麻原の息子」だという理由で入学を拒否された。

次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えを起こした。
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