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死体に帰る男

2015.04.01.Wed.23:01
”彼にとって殺人は彼自身が語っているように『いつもの仕事、日課』に過ぎないのです”
(C・シラグサ検事)
1988年3月24日にロチェスターのジェネシー峡谷で女性の遺体が発見された。遺体はドロシー・ブラックバーン(27)という名の売春婦。

以後、ジェネシー渓谷で次々と女性の遺体が発見され始める。


ニューヨーク州警察とロチェスター市警察は、連続殺人事件の犠牲になった可能性のある3人の女性を発見するため、クリスマス休暇も新年会も返上して、サーモン・クリープと呼ばれる鮭釣りの名所の川や、近接の沼地などを必死で捜索していた。

しかし捜査は難航し、行方不明の女性たちは次々に遺体となって発見された。


そして1990年1月3日、サーモン・クリープの橋で立ち小便をしている男を発見する。

それが「アーサー・ショークロス」であった。


 アーサー・ショークロスは1972年、10歳の少年と8歳の少女を強姦した末に殺害し、有罪となっていた。

14年の刑期を務め、1987年4月に仮釈放。

そして翌年の1988年3月、ショークロスは人殺しを再開したのだ。

最終的に、13人もの売春婦を殺害(認めたのは11人)。

殺人を犯しては度々現場に戻ることから、「死体に帰る男」などと呼ばれた。



 アーサー・ショークロス(本名:アーサー・ジョン・ショークロス)は、1945年6月6日にメイン州のキタリーにて生まれた。

だが少しすると家族はニューヨークのウォータータウンに引っ越す。

幼児の頃から空想癖があり、内向的な性格で、ずっと夜尿症が治らなかった。
小学校2年までは成績はトップクラスだったが、3年からは成績も急激に悪くなり、学校の知能テスト判定では後ろから数えた方がいいくらであったという。

また、言語発達の遅れ、家出などの問題行動が多く見られるようになった。

その原因はショークロスが9歳の時、軍人であった父が赴任先のオーストラリアにも妻子を持っているのが発覚したことによる家庭崩壊である。

この一件で両親の仲は冷え、母親は子どもへの愛情を捨てたのだ。

母親はショークロスを虐待するようになり、父親は「お前さえいなきゃ、こっちで結婚することもなかった」などと暴言を吐いていたという。

愛情のない家に帰りたくないショークロスは、近所に住むウェイトレスの誘いにのり、ほとんど性的虐待とも言える交渉を持つようになる。彼はこの行為に耽溺した。

だが我に返ると自分の行為に恥じ入り、肉体的欲求と罪の意識の板ばさみになって混乱した。

この関係が終わるとほとんど同時に、人間の女に対する反発もあってか、彼は獣姦にのめりこむようになる。
家畜の山羊や羊を襲っては、犯しながらナイフで切ったり突いたりして快感を得るのである。

夜遅く、家畜の返り血を浴びて帰ってくる息子を見ても、母親はなにも言わなかった。

この頃から過剰に暴力を振るうようになり、学校でも問題児として扱われていた。


 ある日、ショークロスが学校から帰る途中、とある男に道を尋ねられた。

身なりも普通でまともな男に見えたが、男の目的はショークロスを犯すことであったのだ。

男はショークロスを殴り、首を締めて下着を剥ぎ取ると行為に及んだ。

傷つき、出血した身体で帰宅したショークロスだが、母親はそれを見てもなんら気にする様子はなかったという。

”家に帰ったら、母がキッチンにいた。俺は傷ついてたし、慰めが欲しかったから『ママ、ぼく、ひどいことされたんだ』って小さな声で言ってみたんだ。そしたらあの女、『そうね。お前を見たら誰だってムカつくだろうからね』って言いやがった。そのまま振り向きもせずに、料理を続けていやがった”

ただ、彼をレイプした男は発見されていないし、母親が彼に性的暴力をふるったかどうかも証拠がなかった。
親族側も完全否定しており、これらはショークロスの証言によるものである。

だがショークロスが裁判前に弁護側証人の女性学者ドロシー・ルイス博士に退行催眠をかけられ、母親に箒を肛門に挿入されて痛めつけられた記憶を呼び覚まされて「痛い、痛い、ママ。僕にそんなことしないで」と啜り泣くさまがテレビ放映された。

直後に「母親の人格」に豹変し、「あたしとあの子の間を邪魔する奴は殺してやる。淫売ども、雌豚」とわめき散らすさまも。

これが演技だったのかは今となっては誰にも分からないが。


ともあれ、ショークロスによれば、このレイプ事件以来性的嗜好が完全に一変してしまったという。


 そしてショークロスは18歳で結婚、一児をもうけた。

幸せの絶頂のはずだが、自分でも得体の知れない欲望に突き動かされて女遊びにのめりこむショークロス。
やがて家庭は崩壊し、離婚。
その後再婚したが、新婚生活を楽しむ暇もなく、1968年ベトナムに従軍した。

*****

 ベトナム戦争がいかにアメリカという国を打ちのめしたかについては、溢れるほど多く作られた映画群が雄弁に物語っているだろう。

多くの「戦争神経症患者」を生みだしたこの戦争。

ショークロスはここでの経験で”カニバリズム(食人)”に目覚めたという。

裏付けはないが、ショークロスの証言によると、2人の少女を捕らえて木に縛りつけ、1人が見ている前でもう1人の首を切断し、腿の肉を切り取って食べたのだそうだ。

しかしこの話はおそらくウソで、戦闘部隊所属でなかったショークロスの場合、獲物の解体を覚えたのは鹿狩りで、生肉の味を覚えたのは食肉加工工場で働いていた時、というのが真相のようである。


 1968年、服務期間を終え帰国したショークロスはまっさきに母親のもとへと向かった。

しかし、彼女にとって息子は邪魔者。
五体満足で帰ってきたことを見るや、恩給が手にはいらないことを嘆いたという。

そして、戦争での苦労話を自慢気に話す息子に対して、

”いい加減黙りなよ。お前のホラ話に興味なんてないよ。それをさっきから女みたいにいつまでもベラベラ、ベラベラと……お前はオカマかい。まさか尻で軍隊にご奉仕してたんじゃないだろうね”

などと吐き捨てた。


 1970年、ショークロスが働いていた製紙工場は彼が勤務して間もなく火事になり、28万ドルもの被害を出した。
この時最初に通報したのはショークロスだった。

さらに4ヶ月後、干し草を貯蔵した納屋が出火、これも真っ先に通報したのは彼だった。
その3日後、ショークロスが勤務して間もない乳製品工場から出火。
またしても、通報者はショークロスだったのはいうまでもない。
その後、ガソリンスタンドへの強盗に加担し逮捕され、3件の火事も自分の放火だった事を自供した。

ショークロスは5年の実刑判決を受け、服役。
収監中に2番目の妻には離婚を言い渡された。

服役中、刑務所内で受刑者たちの大暴動が起きる。

このときショークロスは偶然にも怪我をした看守を助け、このことが功績と認められたことと、模範囚人であったこともあり、2年で仮釈放となった。

1972年、出所したショークロスは26歳。
4月22日に3度目の結婚をする。今度の相手は幼馴染みで、妹の元クラスメイト、ペニー・シャビーノであった。


 1972年5月、ショークロスは10歳の少年、ジャッキーことジャック・ブレイクを雑木林に誘い込み、レイプした上で殺害。

その4ヵ月後、たまたま母親とウォータータウンを訪問していた8歳の少女、カレン・アン・ヒルを雑木林に誘い込み、レイプ。そして殺害した。

ショークロスはこれらの罪で逮捕され、両方の殺人を自白。
司法取引中で彼は、どこにジャックの死体を置き去りにしたかについて明らかにすることになった。

そしてカレン殺しも認め、25年の禁固に処された。

 懲役25年の実刑判決を受けてからおよそ14年半後の1987年、模範囚であったショークロスに仮釈放許可が下りる。

42歳の誕生日を約1ヶ月後に控えた4月30日に出所したショークロスは、服役中に文通で知り合った看護婦、ローズマリー・ウォリーが一緒についてきてくれた。

服役するまでは長身でスリムなショークロスだったが、出所後はかなり白髪が混じり、体に贅肉もでっぷりとついていた。

ショークロスは事件を犯した土地に戻ることを禁じられていたため、各地を転々とすることに。

そして6月29日、ロチェスターへ引っ越してきたのだ。


 ショークロスがロチェスターに住んで約9ヵ月後の1988年3月24日。

あの恐怖の連続殺人が発覚したのである。


 1988年3月15日に姉妹と市内のレストランで昼食をとったあと、行方不明となっていたドロシー・ブラックバーン(27)が1988年3月24日、サーモン・クリープに浮いているのを発見される。

半年後の9月11日、28歳の薬物中毒の女性アンナ・マリー・ステファンの死体がジェネシー峡谷でゴミ袋に詰められて遺棄されていた。

この頃ショークロスはローズマリーにプロポーズ、彼女はショークロスの4番目の妻となる。

10月21日、同じくジェネシー峡谷で鮭釣りにきていた男性が頭の無い白骨死体を発見、慌てて通報。
これはのちに7月29日を最後に行方不明になっていた59歳の浮浪者、ドロシー・キーラーのものと判明する。

その6日後、今度はパティこと25歳の売春婦、パトリシア・アイブスが絞殺死体で発見された。激しく殴打され、肛門を犯されていた。

11月初旬、今度は22歳の売春婦、マリア・ウェルチが行方不明となり、11日、フラニーこと25歳の売春婦フランセス・ブラウンがこれまた無残な姿で発見される。

ここで警察はようやく一連の女性殺人を「同一の連続殺人鬼による犯行」と確信する。

11月23日にはショークロスとローズマリーの友人で軽度の知的障害がある30歳のジューン・ストットが、ジェネシー川で遺体で発見された。

ショークロスは彼女を1ヶ月前に殺害しており、数日して彼女の死体を見に帰ってきたという。
そこで死体の腹を割き、内臓を取り出して、性器を抉り取り食べた。

このとき、

”自分が体から抜け出て、死体を切り刻んでる自分を空から見下ろしてるみたいな気がした”

という。

27日には29歳の売春婦、エリザベス・ギブスンが殺害される。

その年の暮れにはさらに、ダーリーン・トリッピ(32)、ジューン・キケロ(34)、フェリシア・スティーブンス(20)が行方不明となる。


 ショークロスは犯行を重ねながらも、精神的には混乱のきわみにいた。
死体からえぐり出した内臓を袋に詰め、ハンドル片手に袋の中身をいじくりながら帰途をたどるうち「俺は一体何をしているんだろう」という思いに、涙が止まらなくなったこともあったという。

ジューンを撃ち殺した後、彼は「この女の部品をロバート(愛人クララの息子)におみやげに持って帰ったら、きっと喜ぶぞ」という思いに取り憑かれ、内臓と性器をタオルでくるんで袋に詰め、家に帰ることにした。

しかし信号待ちをしている間に、彼はいつものように袋に片手を突っ込んでそれをいじくり出し、我慢できなくなってついに食べてしまう。

それを噛み砕きながら彼はマスターベーションし、ふと我に返ると、バックミラーに血まみれの自分の顔が映っているのが見えた。

彼は自分が完全に駄目になってしまったことを今更ながら悟った。

逮捕されてから彼は、マリアとダーリーンの遺体遺棄現場に刑事たちを案内した。

”彼女はここにいます”

*****

 たとえ戦闘部隊所属ではなかったとしても、ショークロスはベトナムで憶えた殺しのテクニックを有効活用していたようである。

以下、刑事とのやりとり

”あんたは『夜のタフな女たち』をいとも簡単に殺せている。何故だ?”

”刑事さん、俺は彼女たちの『常連』だから、俺にひどい目に合うなんて考えてもいない。だからまず顔面をガツン、とやってやるんだ。女たちは俺に殴られるなんて予想もしていないから驚いて呆然とする。そこをすばやく絞め殺すのさ”

”…そんな事をどこで習った?”

”刑事さん、あんたベトナムで戦ったことはないね?”

”ジューンの死体を切り裂いたのは何故だ?”

”死体の腐敗を早めるには、腹を切り裂いて内臓を引きずり出すこと。ベトナムで戦った経験のある奴なら誰でも知っているさ”


事実、ショークロスの犠牲者には抵抗したあとがほとんどなく、検死にあたったニコラス・フォーブス博士も死体が運ばれる度に犯人の殺しのテクニックに驚き、

”犯人はスタンガンか麻酔薬でも注射したのか?”

と火傷か注射痕がないか毎回調べたという。


また、殺害理由についてはほとんどがほんの些細なことであったという。

最初の犠牲者であるドロシー殺害について

”あの女、俺の大事なものを噛みやがったんだ。血が出たんだぜ。『噛むのが好きなのよ』ってヘラヘラ笑ってやがった”

ショークロスは激昂してドロシーを絞め殺し、死体をサーモン・クリープに捨てて立ち去った。

フラニーはショークロスとのカー・セックスの最中にギアレバーに足が挟まり、レバーのノブがとれた事に腹を立て、殴り殺したという。

”俺は頭にきて彼女の喉を殴り続けたら、動かなくなった”

59歳の浮浪者ドロシー・キーラーはショークロスのアパートから盗みを働こうとしてショークロスを激怒させた。

さらに盗みを追求されたドロシーは
”あんたがクララと愛人関係なの、ローズに言ってやる!”

と開き直ったため、殺されることになった。

”『仲直りして、ジェネシー峡谷に釣りに行こう』と誘った”

しかし釣りはせず、落ちていた丸太で首を思いっきり殴ったら死んだ、という。

アンナは川で遊んでいたところ、ふざけてショークロスを突き落とした。激怒したショークロスがアンナを殴りつけたら、アンナは

”警察に言ってやる!”

と騒ぎ始めた。

”仮釈放でまだ保護観察中の俺にとって、警察への通報は命取りだと思った。次に警察沙汰になったら、下手したら一生刑務所から出られなくなる”

”……それで、どうしたんだ?”

”絞め殺してやった”


*****

 全米が注目する裁判が始まった。

ショークロスは弁護側が呼んだ女性精神医学者ドロシー・ルイス博士に退行催眠をかけられ、幼い日に受けた親からの虐待、また男からの暴行の記憶を呼び覚まされ、許しを乞うて啜り泣いた。

さらには13世紀にイギリスにいた食人鬼「『アリーメス』の霊に取り憑かれている」と言い、奇妙な声でまくしたてた。

これが演技だとすれば、文字通りショークロスは迫真の演技ということになるのだろうが…

残念ながらこの弁護団の「戦術」は失敗に終わり、経験豊富なシラグサ検事に徹底的に矛盾を突かれる事になった。

そして最終弁論でシラグサ検事はショークロスを指差し、陪審団に訴えた。

”陪審員の皆さん、冷酷で計算高く、まったく反省の態度を見せないこの男にどうか殺人犯の烙印を押してください。
彼の殺人は精神異常やトラウマからの情緒不安定の結果などではありません。
彼にとって殺人は彼自身が言っているように『いつもの仕事、日課』にすぎないのです”

陪審員は全て演技であるというシラグサ検事の意見に全面的に同意。

1990年12月13日、エドワーズ陪審員長は10件の殺人全てに第二級殺人罪で有罪の評決を下した。

そして、最後にウィスナー裁判長はショークロスにこう言った。

”ミスター・ショークロス。発言を許します。何か言いたい事があるのなら言いなさい。
この裁判に集まった人間は私も含めて皆、一体どうしてこんな事が起きたのか、理解したいと思っているのです”

法廷内は水を打ったような静けさとなり、全員が耳を澄ませた。


”今は何も申し上げることはありません”



ショークロスは短く淡々と答え、25年の服役刑の10連続遂行、合計250年の終身刑を宣告するウィスナー裁判長を、無表情に見つめていた。


*****

 ニューヨーク州立刑務所のサリバン更生施設にて、250年の終身刑に服していたショークロスだったが、2008年11月10日の午後、足の痛みを訴える。

アルバニー大学医療センターに運ばれたが、21時50分に心不全で死亡。
63歳だった。


ショークロスは刑務所から何100通もの手紙を母親に出したというが、ついに返事が来たことはなかった。

彼は生前、服役中のインタビューでこんな発言をしている。


”1枚でいいんだ、家族全員で写ってる写真が欲しいな。
それさえあれば、自分が騒ぎを起こすことはもうないような気がするんだがなぁ”

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